2020/6/21 白浜温泉 崎の湯

日帰り, 1回目, 晴れ, 2020年度中8湯目

椿温泉しらさぎをチェックアウトして、白浜観光に来た。昨日は牟婁の湯で日帰り入浴したので、今日は残りの共同浴場巡りをしよう…と思ったのだが、新型コロナウィルス感染症対策で崎の湯以外は外来客向けに営業していなかった。

松の湯は会員以外入浴お断わり。


↑ 写真: 松乃湯


↑ 写真: 松乃湯 会員以外入浴お断わり


↑ 写真: 白良湯 町内在住の人以外は17:00-21:30のみ

綱の湯は写真も撮らなかったが、昼営業が無かった。牟婁の湯は昨日入浴済み。

ということで残る崎の湯だけに入浴することとなった。

施設・温泉概要

住所: 和歌山県西牟婁郡白浜町椿1668
公式サイト: 白浜温泉 崎の湯/白浜町ホームページ
日帰り入浴可: 営業時間: 8:00-17:00, 7:00-19:00 (7/1-8/31), 8:00-18:00 (4/1-6/30, 9/1-9/30), 受付は終業時刻30分前まで
宿泊不可

源泉名: 行幸源泉
湧出地: 和歌山県西牟婁郡白浜町2993
湧出量: 測定不能 (掘削・動力揚湯)
泉温: 78.0 ℃
pH: 7.9
成分総計: 10,880 g/kg
泉質: ナトリウム-塩化物温泉 (高張性・弱アルカリ性・高温泉)

白浜温泉の歴史

崎の湯は日本最古の露天風呂の姿を残すと言われている。そこで白浜温泉の歴史を勉強しておく。

白浜温泉は、道後温泉、有馬温泉と並び日本三古湯の1つと呼ばれる。日本書紀に現れる「牟婁温湯 (むろのゆ)」や「紀温湯 (きのゆ)」は湯崎温泉のことであるとされている。斉明3年 (657年) 、斉明天皇の同母弟である孝徳天皇の息子、有馬皇子はまだ17歳であるにも関わらず政争に巻き込まれ疲弊しており、病の治療と称して牟婁温湯へ行った、という。

資料上で遡れる年代的には白浜温泉は道後、有馬に続く3番目か、それに湯の峰温泉が加わり4番目の古さ。現在も海岸の岩場にある「崎の湯」は日本最古の露天風呂と言われている。室町時代には「崎 (ざき) の湯」「元の湯」「館の湯」の3湯が知られていたらしい (根拠は不明)。

その後、戦国時代末期頃に鉛鉱山が発見されると、鉛山 (かなやま) 村と呼ばれ人が多く住んだが、江戸時代までには鉱夫が去り衰退した。江戸時代の中期頃になると湯治・観光で再び栄えるようになり、江戸時代後期に描かれた紀伊續風土記 (きいぞくふどき) や紀伊國名所圖會 (きいのくにめいしょずえ) で鉛山や湯崎が登場する。

紀伊國名所圖會には「崎ノ湯」「元ノ湯」「濱ノ湯」「屋形湯」「摩撫湯 (まぶゆ)」を加えた5湯が示されている。また「穴ノ湯」「新湯」「??ノ湯」というのも半分海の中に描かれている。明治時代には「阿波湯」「疝気湯」を加え湯崎七湯と呼ばれるようになった。「崎ノ湯」「元ノ湯」は天然の岩壺に湯の溜まったものだったそうだ。これらの湯は全て自噴するもので、泉温は40℃〜60℃程度、泉質は炭酸ナトリウムを主としたものだった。

紀伊續風土記には以下のように記されている。

○温泉
元ノ湯 屋形ノ湯 摩撫湯 濱ノ湯 崎ノ湯
外に阿波湯目洗湯なといふ小さき湯壺あり

日本紀 齊明天皇の御巻に有馬皇子往牟婁温湯といひ又續紀 文武天皇大鳳元年九月幸紀伊國十月 車駕至武漏温泉といふ是なり。今は湯崎といふ。元ノ湯崎ノ湯二ツは古の湯壺と見江自然の岩穴なり。屋形濱摩撫の三ツは人作にて湯壺をなすものなり。中昔の歌に所謂眞白良の濱の走湯といふもの此地の温泉の形をいふなり。崎ノ湯は海灣の南の端にあり湯崎の名是れより起る元ノ湯の名は湯壺の源の義なり。

紀伊國名所圖會には当時の湯壺の配置が描かれた絵があるらしいのだが、元絵を見つけられなかった…。

大正時代になると白良浜から温泉掘削が始まり、「白浜館」や「内湯旅館」「不老湯」を相次いで開業した。これをきっかけに旧来の湯崎も巻き込んだ競争が始まると、次々と温泉掘削を成功させて源泉数や旅館数を増大させていった。大正14年には湧出量2,000ℓ/分を越える「行幸元湯」が掘削され、昭和期には白浜の総湧出量は13,000ℓ/分というピークに達した。この流れの中で「白浜」の地名が広がって現在のように「白浜温泉」と呼ばれるようになり、日本を代表する温泉リゾートとしての地位を築いていった。

しかしながら急激な温泉開発には副作用が存在した。掘削の最中で伝統的な湯崎7湯の自噴は止まり、温泉成分は塩化ナトリウムを多く含む塩辛いものに変化したのである。昭和後期になると、これらの現象が掘削を原因とした温泉の地下水位低下および海水の浸入によるものであることが判明し、その後、温泉の掘削・揚湯が制限されるようになると、温泉の海水化の進行を抑えることに成功した。現在に至るまで温泉は成分総計10.0 g/kgを越える強塩泉のままで、かつての自噴泉も止まったままであるが、海水化の進行はほぼ無く、成分・湧出量ともに安定している。

現在の源泉数は55本 (2008年)、総湧出量はよくわからないが少し古い資料によると約6,000ℓ/分。

崎の湯の施設について

和歌山県道34号を北から南へ走っていくと、古くからの湯崎の温泉街を抜け、白浜漁港を過ぎると、右手側に源泉櫓が現われる。これが行幸源泉である。そこで道路が上下に分かれるので、下側 (右側) の細い道に入っていくと、その終端が少しだけ広くなっていて、車を何台か停められる程度の崎の湯駐車場に着く。行くとおじさんが積極的に駐車場整理をしているので、それに従って車を入れた。やはり観光地として賑うのだろう。

駐車場のすぐ横に入浴の受付がある。ここで料金を支払うと、貴重品やスマートフォン、カメラなどは必ず全て置いていけと指示される。やはり国際的な観光地なのだろう。これまで行った温泉の中でも一番警戒が強かった。

そのため写真は冒頭の一枚しか無い。

料金を支払って、門をくぐるとその先で男女別の脱衣場。脱衣場の先で階段を下りていくと、海にせり出した岩場のくぼみが浴槽になっていた。

温泉の利用方法と浴感

浴槽は2つ、岬の先端に近い海際の浴槽と、脱衣場側の岩場を抉って作られた浴槽があった。どう見ても海側がメインの浴槽だが、実は岩場側が昔からあったもので、海側が新しいらしい。使用している源泉は両方とも同じで、行幸源泉。

岩場の浴槽

脱衣場側の岩場の浴槽は人工的な楕円状になっており、8人程度が入浴できる大きさ。海側は浅く、脱衣場側は少し深くなっている。さらに、脱衣場側の一部は浴槽の底が穴みたいになっていて、立って入浴できるほどの深さがある。ここの坂を利用して身体を収めると安定して大変に過ごしやすいし、誰もこなくて落ち着くので、入浴中の大半の時間をこの穴で過ごした。だが今この記事を書きながら調べていてわかったのだが、この穴こそが、かつて湯の自噴していた湯壺らしい。気付かなかったとは言え、日本最古の歴史がある湯壺をじっくりと味わえてラッキーだ!

さらに調べてみると現在の浴槽の人工的な形状についても、実は大正時代以前に削って作ったようで、窪みほどでは無いが歴史があるようだ。当時の写真を見ると今と近い形をしていることがわかる [1]

今の湯口は古い湯壺脇の岩の高さ3m位の位置、脱衣場の足元付近にあり、湯は岩を流れて浴槽に注がれる。湯の流れる岩は黄色や白色に変色し、析出物に覆われていた。

浴槽の温度はぬるめで40℃位。湯口から吐き出される湯に直接触れてもあまり熱くなかったため、加水により温度調節していると思われる。

温泉の利用方法は、加温無し、加水有り、循環無し、消毒無しの加水掛け流しである。溢れた湯は浴槽の隙間からオーバーフローしていた。

海際の浴槽

海際の浴槽は、高潮や強風の時には波が浴槽にかかるそうだ。ただ、私の行ったときには真昼で潮位が低かったこともあり、波が遠くあまり豪快さは感じなかった。満月の夕方に再訪した方がいいかもしれない。

しかし海の景色はそれでも大変良く、視線の高さで水平線を眺めながらの入浴ができる。浴槽の外の岩場では、それほど遠くないところで釣りをしている人が見える。岩場の景色も力強い。

浴槽は岩場の形状を利用して作ったと思われる歪な形状で、数えにくいが8人が入浴できそうな大きさ。湯口は、男女浴槽を隔てる高い木板の側面をホースが這わせてあり、そのホースから触れないほど熱い湯がドバドバと浴槽に注がれていた。少しでも手を当てるとアッチッチなので、温度は50℃を大きく越えているだろう。源泉への加水を控えめにしていると思われる。

他の小さい湯口もあり、浴槽内では場所によって温度差があるが、大体43℃位の熱めになっていた。

結構熱めなので休み休み入浴する必要があった。先述の通り、浴槽の外には岩場が広がっているので、そこで寝転がって休むと爽快である。あまりやっている人はいなかったが。

温泉の浴感

湯は無色透明で浴槽の底ははっきりと見える。湯の中を覗いてみると、白色か肌色の湯の華がチラホラと舞っているのが確認できた。肌色の湯の華には大きめのものもある。牟婁の湯とは湯の華の出方が異なっているのは、岩風呂だからか、露天風呂だからか。

岩場側の浴槽の湯口から、手で湯を汲んで飲んでみた。味は弱めだがはっきりとした塩味。少し硫黄のコクがあった。匂いは僅かな玉子臭があって、飲む時ははっきりと感じるが、入浴中はそれほど感じない。

湯は身体がよく温まり、汗がよく出る。。気温が高かったせいか、長時間の入浴はしにくかった。浴後、肌がベタベタする気がした。これは汗のせいか、潮風のせいではないか。

温泉の成分

温泉分析書は撮影できなかったが、行幸源泉なので牟婁の湯で撮影した写真を貼っておく。


↑ 写真: 白浜温泉 行幸源泉 温泉分析書


↑ 写真: 白浜温泉 行幸源泉 温泉分析書別表

以下は自前のプログラムに分析書のデータを入力して、自動計算したもの。本物の分析書とは計算精度等の理由によりやや値が異なる場合があるかもしれない。

源泉名: 行幸源泉
湧出地: 和歌山県西牟婁郡白浜町2993番地
分析年月日: 平成26年2月20日

湧出量 記載無し
pH 7.9
泉温: 78.0 ℃ (調査時における気温17.0℃)
泉質 ナトリウム-塩化物温泉 (高張性・弱アルカリ性・高温泉)
溶存物質合計 (ガス性のものを除く) 10879.8 mg/kg
成分総計 10880.1 mg/kg

温泉の成分は以下の通り:

(1) 陽イオン
成分ミリグラム [mg/kg]ミリバル [mval/kg]ミリバル% [mval%]
水素イオン (H+)0.1未満----
ナトリウムイオン (Na+)3390.0147.4684.30
カリウムイオン (K+)167.004.272.44
マグネシウムイオン (Mg2+)226.4018.6310.65
カルシウムイオン (Ca2+)91.004.542.60
アルミニウムイオン (Al3+)0.100.010.01
マンガンイオン (Mn2+)0.600.020.01
鉄 (II) イオン (Fe2+)0.100.000.00
陽イオン計3875175100.00
(2) 陰イオン
成分ミリグラム [mg/kg]ミリバル [mval/kg]ミリバル% [mval%]
フッ素イオン (F-)3.500.180.11
塩素イオン (Cl-)4396.0124.0073.41
水酸イオン (OH-)0.1未満----
硫化水素イオン (HS-)0.200.010.01
チオ硫酸イオン (S2O32-)1.100.020.01
硫酸イオン (SO42-)451.509.405.56
炭酸水素イオン (HCO3-)1834.030.0617.80
炭酸イオン (CO32-)157.605.253.11
メタケイ酸イオン (HSiO3-)0.1未満----
メタホウ酸イオン (BO2)0.1未満----
陰イオン計6844169100.00
(3) 遊離成分
非解離成分:
成分ミリグラム [mg/kg]ミリモル [mmol/kg]
メタケイ酸 (H2SiO3)110.901.42
メタホウ酸 (HBO2)49.801.14
非解離成分計160.702.56
溶存ガス成分:
成分ミリグラム [mg/kg]ミリモル [mmol/kg]
遊離二酸化炭素 (CO2)0.1未満--
遊離硫化水素 (H2S)0.300.01
溶存ガス成分計0.300.01
(4) その他の微量成分
成分ミリグラム [mg/kg]ミリモル [mmol/kg]
総砒素 (As)0.001未満--
総水銀 (Hg)0.0005未満--
銅イオン (Cu)0.01未満--
鉛イオン (Pb)0.05未満--
カドミウムイオン (Cd)0.05未満--
微量成分計0.000.00

下記にも掲載しました。
行幸源泉 - 湯花草子

白浜温泉の成り立ち

最後に白浜温泉の成り立ちについて勉強する。

白浜温泉についてはかつて、紀伊半島の古い (1,600万年前の) 火山に残された熱源が地下水を温めることで温泉になっていると思われていた。しかし近年の研究により、プレートの活動によるものであると判明した。

フィリピン海プレートが陸地側のプレート下に沈み込むと、深さ50km以上では圧力によってプレートから水が絞り出されるようにして熱水が発生する。この熱水が地下の亀裂を通り地上付近まで上昇すると、これが熱源となって地下水を温めたり、地下水と混ざることで温泉になる。白浜温泉、椿温泉、周参見温泉は、紀伊半島西南部に沿って熊野地域の古い火成岩が貫入する枯木灘弧状岩脈上に湧出していて、この岩脈や亀裂を通って熱水が上昇していると考えられている。

参考資料

おまけ


↑ 写真: たぶん走り湯源泉 間違えて来た


↑ 写真: たぶん走り湯源泉 間違えて来た


  1. 和歌山県 湯崎温泉【温泉資料館】 ↩︎